2011年 12月 07日
とらわれない |
ばあちゃんファンの皆さま。申し訳ない、今日はヨメのひとりごとです。
ひと晩で1m積もることもある豪雪地。長靴もブーツも雪用のものが必要です。
シッカリ防水・ガッチリ滑り止め付き。これでまずは安心。今冬も、どうぞよろしく。
小学校3年ぐらいの頃。
長靴が小さくなったので買ってあげる、と母が言うのです。
母の選ぶものは決まっていました。
店にある一番安い、サイズも大きめ、つまり色格好はどうでもいい。
すかさず「いらない」と言い放った娘。
普段は従順なくせに、身につけるものには子どもながらこだわりがありました。
「あったかければそれだけでしあわせ」などと今の私が言おうものなら
「気に入らない長靴履くぐらいなら裸足でいる」って言った子がねぇ、と母はあきれながら
そう思えるようになってほんとによかった、と安心しているようなのです。
この家に来た当初、雑誌を眺めながらタメイキついた。
こんな器で食べられたらな。こんな暮らしができたらな。
でも現実は、そんなわけにはまいりません。
欠けた縁を適当に埋めた、古ぼけた絵柄の皿が山ほど。
「なんでも家でやってた頃は数が要ったからなあ。ハネダシをやっとの思いで買ったんだよ」
あんなに見事なマタタビザルがあるのに赤や黄色のプラスチックのザルやボール。
「昔これ買ってうんと嬉しかった。きれいでなあ」
ばあちゃんの歴史を聞けば、捨てるなんてことできるわけもない。
かくして我が家は良きもの・そうでもないもの・これはダメでしょうなモノの渾然一体。
そんなこんなで、「なにごとにもこだわりの強かった」私も
半分ぐらいどーでもよくなったというわけです。
こんなことを考えていたらこんな文章に出逢いました。
ちょっと長いですが、お時間許しましたらぜひ。
「自分の思いのあらん限りを尽して、たとえば服装にしても、どこに点のうち所もなく、住居(すまい)にしても、どこからどこまで自分の工夫のありだけを尽して経営するということになれば、私たちはほとんどそのために、他を思う暇がなくなってしまいます。あまりに毎日の生活に凝(こ)り過ぎず、心の働きにも余地を存して置きたいのです。毎日の生活は大事なものですから、厠(かわや)の草履(ぞうり)ほどに無雑作に扱ってはならないのですけれど、せめてはきなれた靴ほどにして置いて、私たちはその靴をはいていながらも、靴のことは別段に気にかからず、悠々として道を行き得るようにしたいのです。そして野を行けばその自然の趣を愛で、渓川(たにがわ)のほとりを行けば、その閑(しず)かなせせらぎに耳を借し、大路を行けば煩雑な人の世の様にふれ、独りある時には、その時々のわがほんとうの思いをよく見ることが出来るようになりたいのです。」
羽仁もと子『囚われざる生活』(「思想しつつ生活しつつ」より抜粋 1914年8月)
大正3年に日本中の女性たちに向けて書かれたものです。この方の文章は独特でちょっと読みにくい印象がありましたが、今読むとなんと瑞々しい言葉でしょう。1873年青森県八戸生まれ。日本で初の女性ジャーナリスト、雑誌の創刊、教育に一生を捧げました。
どこまでも自分の好みを通すことなんぞできないのが普通の生活。
「心の働きにも余地を存して置く」― その時、その時に出会えるものに気づけるように。
あれもこれもまじりあう中で自分自身が消えてしまうどころか
ますます広々と心はふくらんでゆくようで嬉しくなってくるのです。
初雪のあと、珍しく晴れ渡った。遠くへ飛んでゆく白い鳥の群れのよう。
★本日の画材:ペン・色鉛筆(毎度おんなじです)
シッカリ防水・ガッチリ滑り止め付き。これでまずは安心。今冬も、どうぞよろしく。
小学校3年ぐらいの頃。
長靴が小さくなったので買ってあげる、と母が言うのです。
母の選ぶものは決まっていました。
店にある一番安い、サイズも大きめ、つまり色格好はどうでもいい。
すかさず「いらない」と言い放った娘。
普段は従順なくせに、身につけるものには子どもながらこだわりがありました。
「あったかければそれだけでしあわせ」などと今の私が言おうものなら
「気に入らない長靴履くぐらいなら裸足でいる」って言った子がねぇ、と母はあきれながら
そう思えるようになってほんとによかった、と安心しているようなのです。
この家に来た当初、雑誌を眺めながらタメイキついた。
こんな器で食べられたらな。こんな暮らしができたらな。
でも現実は、そんなわけにはまいりません。
欠けた縁を適当に埋めた、古ぼけた絵柄の皿が山ほど。
「なんでも家でやってた頃は数が要ったからなあ。ハネダシをやっとの思いで買ったんだよ」
あんなに見事なマタタビザルがあるのに赤や黄色のプラスチックのザルやボール。
「昔これ買ってうんと嬉しかった。きれいでなあ」
ばあちゃんの歴史を聞けば、捨てるなんてことできるわけもない。
かくして我が家は良きもの・そうでもないもの・これはダメでしょうなモノの渾然一体。
そんなこんなで、「なにごとにもこだわりの強かった」私も
半分ぐらいどーでもよくなったというわけです。
こんなことを考えていたらこんな文章に出逢いました。
ちょっと長いですが、お時間許しましたらぜひ。
「自分の思いのあらん限りを尽して、たとえば服装にしても、どこに点のうち所もなく、住居(すまい)にしても、どこからどこまで自分の工夫のありだけを尽して経営するということになれば、私たちはほとんどそのために、他を思う暇がなくなってしまいます。あまりに毎日の生活に凝(こ)り過ぎず、心の働きにも余地を存して置きたいのです。毎日の生活は大事なものですから、厠(かわや)の草履(ぞうり)ほどに無雑作に扱ってはならないのですけれど、せめてはきなれた靴ほどにして置いて、私たちはその靴をはいていながらも、靴のことは別段に気にかからず、悠々として道を行き得るようにしたいのです。そして野を行けばその自然の趣を愛で、渓川(たにがわ)のほとりを行けば、その閑(しず)かなせせらぎに耳を借し、大路を行けば煩雑な人の世の様にふれ、独りある時には、その時々のわがほんとうの思いをよく見ることが出来るようになりたいのです。」
羽仁もと子『囚われざる生活』(「思想しつつ生活しつつ」より抜粋 1914年8月)
大正3年に日本中の女性たちに向けて書かれたものです。この方の文章は独特でちょっと読みにくい印象がありましたが、今読むとなんと瑞々しい言葉でしょう。1873年青森県八戸生まれ。日本で初の女性ジャーナリスト、雑誌の創刊、教育に一生を捧げました。
どこまでも自分の好みを通すことなんぞできないのが普通の生活。
「心の働きにも余地を存して置く」― その時、その時に出会えるものに気づけるように。
あれもこれもまじりあう中で自分自身が消えてしまうどころか
ますます広々と心はふくらんでゆくようで嬉しくなってくるのです。
★本日の画材:ペン・色鉛筆(毎度おんなじです)
by wildrose53
| 2011-12-07 20:57
| らくがき